平和・民主・革新の日本をめざす住吉の会
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住吉区における戦時体験

住吉区における戦時(占領時を含む)体験についての手記や談話などを随時掲載していきます。
明確な誤字を除き原稿の表記にしたがいました。敬称は略させていただきました。


墨江国民学校高等科の勤労動員について (2007.05.09掲載、2007.05.27最新訂正)
                                  湊 治夫(大阪府在住)


 私は1944年3月、同校初等科卒業、旧制中学の入試に失敗し、高等科に入学しました。当時高等科は墨江だけに設けられており、近隣の国民学校初等科卒業生は皆墨江に通学するほかなく、私の親友は遠くの長居から歩いて通っていました。激化する戦争下、授業は2〜3ヶ月行われただけで、その後旧日本帝国海軍管理工場であった栗本鉄工所加賀屋工場(現在も同じ場所にある)に動員され、毎日、兵隊や軍属に徴用され残り少なくなった工員の指導の下、女子挺身隊員の方々と共に、艦船用バルブの中芯を鋳物砂を固めて作る作業に従事させられました。
 当時の食糧事情は極端に悪く、乏しい配給も欠配がちで、いつも空腹をかかえていましたが、軍需工場だったので、曲がりなりにも昼食は支給されましたが、薄い木の板の弁当箱(金属不足でアルミ製のものなどは供出させられ、あまり見かけなかった)の中に、殆ど大豆か脱脂大豆、そのまわりに米が2〜3粒くっついているような感じの茶碗に一杯ほどのご飯と、輪切りの大根の煮たもの2〜3切れが毎日続いたと記憶しております。時々空襲警報が鳴ると作業を中断し工場外に待避することもありました。翌年3月、旧制中学を再度受験(空襲激化で無試験入学)、やっと工場労働から解放されたと思ったのも束の間、入学した学校は2ヶ月余り後空襲で校舎が焼失、校庭を開墾し農作業をさせられ8月15日の敗戦の日をむかえました。後に高等科2年になった同級生の誰かが工場で空襲のため亡くなったと聞きました。
 戦地や空襲で亡くなったり傷ついた沢山の人々、空襲で家財を失い戦災者となった人々、肉親を失い戦災孤児になった子供達。食べるものがなくいつも空腹をかかえていた時代、勉強したくてもできなかった時代、連日連夜の空襲のためゆっくり眠ることもできなかった時代、他国を植民地化したり侵略し、大きな被害を与えた時代。このような時代を二度と繰り返させないため。そして日常生活では水や空気と同じように、平和についてあまり意識することはありませんが、そのどれもが人間が生きていく上で最も大切なものであることを考えると、今一番必要なのは現行の平和憲法を護り、護らせることだと思っております。
 ”戦争は大抵自衛のため、平和のため、正義のためといって始められる”



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